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正序句与倒序句的文体差别

时间:2022-04-06 理论教育 版权反馈
【摘要】:正序句与倒序句的区别,一般是就主语和谓语的位置关系而言。普通情况下的S—P型句,称为正序句;比如在口语中:一体、どうしたんだ、あなた。反而言之,作者使用倒序句就是要求读者把信息当做自己既已知道的事情接受、认可。应该说时间副词倒序句的功能和特点与主谓语倒序句的基本相同。

正序句与倒序句的区别,一般是就主语和谓语的位置关系而言。普通情况下的S—P型句,称为正序句;比如在口语中:

一体、どうしたんだ、あなた。

这句话的正常顺序应该是“あなたは一体、どうしたんだ”,但说话者为了突出表达自己的不满情绪,改变了句子的顺序。又如:

行かなかったの、君は。

すばらしい味だ、この酒は。

这两句话是说话者把自己想强调的事情和感觉提前说出,然后再作为对此的补充说出主语。我们知道口语往往受客观环境和说话者的主观感隋影响,有的时候倒装句会不由自主地脱口而出:

出た出た、月が、円い円い真円い盆のような月が。

这句子可以说是说话者的感知顺序和感情自然流露的表现,他(她)首先是发现月亮的出现,然后才发现这是一个圆如银盘的明月,于是他(她)便自然而然地用这样一个倒装句将自己喜出望外的发现和兴高采烈的感情及时地表达了出来。至于在文学语言中,倒装句就更是比比皆是了。比如在小说、随笔等中就常常使用倒装结构来增强语言的艺术表现力:

人々は驚いた、豊吉の余に老ぼれたのに。人々は祝った、其無事であったのを。人々は気の毒に思った、何事も成就し得ないで零落て帰ったのを。……

(国木田独歩《武蔵野》)

作者为了突出表达人们看到久游后归来的“豊吉”的种种感情,一连使用了三个倒装句。这样处理的结果是,既渲染了气氛,又全面地交代了令人们惊讶、庆幸和怜悯的“豊吉”的“凄惨境况”。

正序句主语在前,谓语在后,主语通过谓语部分的叙述,人们便可获得一个有关主语如何如何的完整信息;但假若将叙述部分即谓语部分前置的话,那么意味着这个信息对于读者是既知的。反而言之,作者使用倒序句就是要求读者把信息当做自己既已知道的事情接受、认可。这时作者可能采取的是一种对自己的读者推心置腹、和盘托出的真诚态度。又如:

もし科学的に妥当な理論だけですべてが解決するのだったら、いまの学校教育のように、結論だけのルールを覚えればいい。けれども、暮らしや自然に生きる技術は、必ずしもそのルールだけにあてはまらないということを知っているのが日本人である。

(樋口清之《日本人のアイディアのかたち》)

另外,有时也可能情况正好相反,强迫读者别无选择地接受某一信息,而变成一种自以为是或故显深奥的表现。比如:

自分から見るとほとんど想像さえ付かなかった出来事を、始めからくふうして、とうとうそれを物にするまで漕ぎ付けたものは例の岡田であった。彼は平生からよくこんな技巧を弄して、その成功に誇るのが好きであった。自分をわざわざ電話口へ呼び出して、そのうちきっと自分を驚かして見せると断わったのは彼である。それからほどなく、お兼さんが宿屋へ尋ねて来て、そのわけを話した時には、自分も実際驚かされた。

(夏目漱石《行人》)

根据前后文的关系来看,作者在这里是先用两个倒序句,将“岡田”的“办事特点”当作既成的一般事实告诉读者,然后再叙述具体事例。这种乍一看令人真有点“丈二和尚摸不着头脑”的表现方法,可以说正是作者要求读者无条件接受某一信息的表现意图的反映。当然,使用倒序句时的作者的态度是“真诚”还是“蛮横”,除了有的作者表现出比较固定的倾向性外,主要要靠前后文的关系来判定。不过,无论何种情况,共同点是倒序句具有“既成事实化”的功能,使用了它,便意味着某一“叙述内容”被作者当作业已定论的“结论”或毋庸置疑的“前提”来处理。而且,这种“结论”或“前提”往往是为展开别的论述服务的。比如下面这段话便是例子:

……要するに、多数決に近い、一般的で普遍的に妥当な性質を持ったものが科学理論といわれるものものである。しかし、日本人はそういう普遍的な理論だけを発見しょうとは思わないのである。普遍的な理論より、むしろ個々のもの、特殊性を大事にする。……

(樋口清之《日本人のアイディアのかたち》)

在这里正是先用倒序句表述出“众所共认”的科学理论的“定义”,然后展开论述,说明日本人对这种科学理论的态度及其原因所在的。

另外,在此我们必须看到的是,这种倒序除了发生在主语和谓语的位置关系上之外,还往往发生在副词(主要是“陈述副词”和时间副词)和谓语的位置关系上。比如“彼がそう言ったのはたしかです”,就是对“たしかに彼はそう言ったのです”的倒序。下面就让我们来看一些这方面的实际用例:

しかし、ともかくも、学校で教わったことの少なくとも何十パーセントは奇麗にわすれてしまって、例えば自分らの子供に質問されて即座に明答を与えることができない程度にまで意識の圏外に排泄してしまっているのは事実であるらしい。

(寺田寅彦《鉛をかじる虫》)

句中的“事实”这时为副词用法,所以在此把它换成“たしか”或将之置于句首也是完全说得通的。这种副词的倒序句除了具有与S—P倒序句相同的特点外,我们认为它还具有意思相同的正序句所没有的长处:在句子较长、较复杂的情况下,使用它较之于正序句可以使得句意更加清楚、更加有力。换而言之,比如像上面这个句子,如果将“事实”置于句首,即将句子改成“しかし、事実上……ているのである”的话,就会产生一种“鞭长莫及”感觉,即“事实”的“影响力”难以覆盖全句,及至到达句末已变得相当“微弱”;而使用倒序句则可避免这一问题。这恐怕与日语的所谓“句末决定”的特点不无关系吧。

至于时间副词倒序句有以下的用例:

種種の旅客を載せた列車が三吉たちの前で停まったのは、間もなくであった。

(島崎藤村《家》)

友人が持ってきた手形にぼくの名を裏書し、友人に指定された金融筋で割って額面のほぼ九十パーセントの金を作り、それをそのままその友人に渡したのが一月の十日のこと。

胡桃沢耕史《太陽の処女》)

应该说时间副词倒序句的功能和特点与主谓语倒序句的基本相同。在诗歌中,出于格律和韵律的需要也常常使用倒装句:

私は又あした遠く去る

あの無頼の都へ、混沌たる愛憎の渦の中へ。

私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。

(高村光太郎《樹下の二人》)

这个句子如若按照“私は……遠く去る”的正常顺序的话,将成为一个修饰成分繁杂冗长的句子,这样就不成其为诗歌语言了。所以作者有意做了倒装处理。同时,这样处理还可以取得韵律美的效果:两个“中へ”(nakae)构成押韵形式。

最后,在翻译文体的文章中也常常出现倒装结构的句子:

僕等は、はっきりと感じている、何かしらある柵だとか扉だとか壁だとかが存在する、と……僕等は訝る、ああこれは長いことなのか、永遠にそうなのか、と。

(小林秀雄《ゴッホの手紙》)

句中将谓语提前,并用两个表示精神活动内容的助词“と”显示句子的正常顺序被颠倒了过来。这样的处理给人以一种人工美和跳跃的感觉。

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