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事態選択形式再論

时间:2022-04-07 理论教育 版权反馈
【摘要】:森山卓郎1.はじめに日本語における、「なければならない」「するべきだ」「したほうがいい」「してもいい」「しなくてもいい」「してはいけない」などは、広義の必要や許可といったいわゆるdeonticな認識を表すとされてきた。その点で、これらの形式をめぐって「評価のモダリティ」という概念で位置づけることも確かに可能である。

森山卓郎

1.はじめに

日本語における、

(1)「なければならない」「するべきだ」「したほうがいい」「してもいい」「しなくてもいい」「してはいけない」

などは、広義の必要や許可といったいわゆるdeonticな認識を表すとされてきた。[1]さらに、森山(1997)、森山(2000)において、これらは、「ざるをえない」等も含めて「事態選択的な判断」を表す形式として整理できることが示された(ただし、「するといい」については直接とりあげられてはいない)。ただし、これらに関する検討はその後必ずしも十分になされてきたわけではなかった。

その中で、高梨(2010)は、「評価のモダリティ」としてこれらの形式を統一的に記述するものとして注目される[2]。必要などを表す事態選択の形式においては、選択がある以上、普通は「事態の望ましさ」がその基準となる。その点で、これらの形式をめぐって「評価のモダリティ」という概念で位置づけることも確かに可能である。特に、願望表現的な用法なども含めて「評価」としてとらえる点は新しいといえる。

ただし、形式の位置づけという点での課題もないわけではない。事態の選択という意味と願望という意味とに確かに交渉はあるが、意味的には峻別すべき側面もあるように思われるのである。例えば、「駅へ行くならタクシーに乗った方がいい」のような「ほうがいい」という形式があり、中国語で言えば「最好」に相当するが、これに対して、同論文では、「制御不可能」な内容を共起させた、

(2)A「明日天気になるといいね。」

B「ううん、暑いのは苦手だから、雨が降ったほうがいいよ。」

(高梨2010:67)

のような例も「願望」という「二次的意味」を持つものとして位置づけられている。確かに「ほうがいい」という形は共通している。しかし、「ほうがいい」という形について、「基本的意味」と「二次的意味」を認め、願望とでも言うべき意味を関連づけるという分析方針が最適なのかどうかは検討する必要がある。実は、この例のような「ほうがいい」は、

(3)雨が降った方がありがたいよ。

のように、「ほうがありがたい」に置き換えることができる[3]

一方で、「制御可能」な場合は、

(4)∗駅に行くならタクシーに乗った方がありがたいよ。

のように言えない。そう考えると、「ほうがありがたい」に置き換えることができる「ほうがいい」は、願望を表す別の形式、いわば「ほうがいい2」として扱う方が適切だということになる。「いい」という形式は多義的であり、その用法には広がりがある。共起する内容に従ってその用法を整理しておくことも必要だと思われるのである。

そこで、まず、ここでは評価のモダリティというとらえ方をせず、複数の事態が対照され、その選択に関するコメントを表す形式を広く事態選択形式と呼ぶことにしたいと思う。その上で、その選択的関係を基本的な枠組みとしてまず整理し、形式の有する多義性と、用法上の拡張を多様な観点から位置づけていきたいと思う。

そうすることで、改めて評価に関する文型も広く整理できそうに思われる。例えば、

(5)質問したのではない、手を挙げただけだ。

のように事態を小さく「評価」するような形式についても評価としての位置づけができる。逆に、通常の語感では、「ざるをえない」などは「評価」を表すとは言いにくいように思われるが、モーダルな意味の整理として「評価」という整理をすることについては少し検討が必要だと思われる。

また、「評価」と「望ましさ」という観点をとらないことで、

(6)勝手にするといい。

のような放任的な表現も含めたより高次の意味についても整理した扱いができることにも注意したい。この例での「望ましさ」は「望ましさ」を表すともいえるかもしれないが、「高次の意味としての望ましさ」ではない。

以下、本稿では、森山(1997)、森山(2000)と多少の重複もあるが、事態の選択の仕方を表す形式という観点から、その形式の形態的特性、用法上の特性、意味的特性を紙幅の許す範囲で整理しておきたい。必要に応じて中国語も参考にしたいと思う。

2.事態選択の意味論

2.1 事態選択としての形式

まず、「事態の選択に関するコメントを表す」形式の特性を確認しておく。これらの前接述語の形態は未実現のことがらである[4]。未実現の事態について価値判断をふくめていかに事態を選択するかということが示される。選択される事態とは、ル対タの対立のレベル(いわゆるテンスのレベル)を含まないものと言える。「なければならない」「てはいけない」「べきだ」などは言うまでもないが、「ほうがいい」も、形式の前にル対タの対立は実質的にはない。例えば、

(7)明日学校は{休む/休んだ}方がいい。

のように、ニュアンスの上での違いは別として、基本的にはどちらも使え、タ形かどうかの意味的な対立関係があるわけではない。この点で、「するといい」「したらいい」「すればいい」など、「条件節+いい」は、テンスを含まない事態のレベルについてのコメントを表す形式として整理できる。

次に、これらの形式が共起する事態の特性に、「選択」という要因が関連することも確認しておきたい。すなわち、これらに共起する事態は、典型的には主語が人であることが普通であり、そこには何らかの事態の制御性が関わる。

(8)∗この牛乳は腐るべきだ。

(9)∗日曜日は明日にならざるを得ない。

のようには言えない。これは主語が有情物でなければならないといった単純な問題ではない。

(10)諸般の事情から、検査実施は明日にならざるをえない。

(11)問題の性質上、手続きについては事前に告知されているべきである。のように、人以外の主語でも文が成立する場合はある。これは事態がいかにあるべきかについて、一定の選択の余地がある事態として解釈できるからである。

なお、こうしたことに加えて、共起関係でも事態選択的意味が指摘できることにも触れたい。いわゆる例示のデモは、

(12)∗僕は昨日、本でも読んだ。

のように過去として言えないという現象がある。これは、デモの「選択的例示」という意味が、確定した一つの過去の事柄を言う場合には不適当になるからである〔沼田(1986)、丹羽(1995)、森山(2000)などを参照〕。しかし、同じ過去のことでも、これらの形式を共起させれば、

(13)僕は昨日は久しぶりの休暇だったから本でも{読むべきだった/読まなければならなかった}。

などのように、自然な文となる。これらの文末形式が表す事態選択という意味が例示のデモの「選択的例示」という意味に対応し、唯一の事態に固定しない点で、自然な文をつくることができるのである〔「~とか~とかする」などの形式でも同様のことが言える。森山(1995)を参照〕。これは事態が選択されることを表すという意味から説明できる。

さらに、主題の提示ということも事態選択という意味から位置づけられる。そもそも選択ということの一般的な意味について考えれば、選択とは常に、「何かについて」のものであるということが考えられる。例えばパンかライスを選択することは、あくまで主食をどうするかを考える上で問題になることである。このように、選択形式の意味を問題とする場合、それが「何について」なのかということが主題形式として問題になると言える。

はたして、これらの形式についてみてみると、主題要素が文脈的に存在している。例えば、

(14)彼が行かねばならない。

(15)彼が出る方がいい。とだけ言う場合、ある種の情報の欠如を感じるのであって、例えば「今度の会議には」といった主題要素が文脈として必要なのではないだろうか。ここから、これらの形式が主題を要求するという特性が説明できる。例えば、友人の自動車に故障を見つけた場合、

(16)この車は修理しなければならない。

と言うが、これは、その動作主を補って主題化した、

(17)君はこの車を修理しなければならない。

という文とは意味的に大きく違っている。前者は「この車」にとっての必要事項を言うのに対して、後者は「君」にとっての必要事項を言うことになっているからである。

以上、こうした形式が表す意味と用法の特性が事態選択という観点で整理できることを見た。本稿では、以下、それぞれの形式を、その選択の自由度にしたがって、大きく唯一型、相対型、容認型というように整理していきたいと思う。

3.唯一型事態選択形式

3.1 唯一型事態選択形式の特性

「ざるをえない」「なければならない」などは基本的に唯一の事態を選択するものであり、大きくは同じタイプとして分類できる。その点で、次のようにいずれの表現も成立するような文脈があり得る。

(18)経営上の体力がない上に、営業上のマイナス要因が3つもできた。こうなると、もうこの事業から撤退{せざるをえない·しなければならない}。

これらは、それ以外の選択肢が許されないことを表し、

(19)そうしないことも可能である。

のような否定(補集合)の事態を選択する表現が共起できない点で共通している。

(20)∗経営上の体力がない上に、営業上のマイナス要因が三つもできた。こうなると、もうこの事業から撤退{せざるをえない·しなければならない}。しかし、そうしないことも可能である。

という文連続はいずれも不自然である。以下、紙幅の許す範囲でそれぞれの形式を取り上げて具体的に述べてみたい。

3.2 「ざるをえない」

「ざるをえない」と「なければならない」との違いは、単に文体的なものではない。すなわち、(21)しなければならなかったが、しなかった。

と言えるのに対して、

(22)∗せざるを得なかったが、しなかった。

とは基本的に言えないという点である。過去形で言う場合の「ざるをえなかった」はその事態が選択の余地がなく、事実として成立したことを含意する。この点で中国語でほぼ対応するのは「不得已」である。

その事態以外を選択候補として検討しつつ、それ以外の選択肢がないという意味から考えれば、「望ましくないがそれ以外しかたない」選択が表されることが一般的な用法だといえる。そのため、望ましいことを「せざる得ない」で言うことは不自然である。

(23)人は誰でも幸せにならなければならない。

と言えるのに対して、

(24)∗人は誰でも幸せにならざるを得ない。

とは言えない。こうした点は中国語も同様のようで、

(25)人不论谁都{必须要∗不得已}幸福。

のように「不得已」はいいことには使わないようである。逆に、(

26)車がなかったので、自転車で出かけざるをえなかった。

のように、むしろマイナスの出来事について言う場合には「ざるををない」を使うことができ、ほかの選択をしたいが、その選択の余地がないという意味を表す。中国語でも、

(27)因为没车,不得已就骑自行车出门了。

は自然だという。

選択の余地がないという事情は、基本的にその選択当事者において問題になることである。そのため、視点が対立する場合には、相手の事態選択を見透かしているようなニュアンスを帯びるような特殊な場合を除いて、基本的に平叙文で聞き手のことを断定的に言うことはない。

(28)??君は明日、試験を受けに行かざるを得ません。

などとは言いにくい。これも、

(29)君は明日試験を受けに行かなければならない。などと言えることと対照的である。

この類義表現には、「するしかない」「するほかない」などがある。さらに、「することを余儀なくされる」のような形も動詞の形式ながら選択の余地がないことを表す。詳細については別稿に譲りたい。[5]

3.3 「なければならない」

一方、「なければならない」は、唯一の選択を表すものと言えるが、その選択の要因が価値的必要ないし論理的必然によることが示される。「なければいけない」「なければだめだ」などもこの形の上での変種であり、以下「なければいけない」の形で言及する。

「なければいけない」は、

(30)まかされた仕事はきちんとやり遂げなければならない。

のように、プラス内容の事態で使うことができる。ただし、「なければならない」は「必要」を表すといっても、選択が唯一であることを表すだけであって、プラスの価値に限られるわけではなく、対応上の必要性として、マイナスの価値の事態を表すことはあり得る。

(31)車がなかったので自転車で出かけなければならなかった。

ということもできる。その場合でも、例えば、「出かけることをやめた」のような連続は可能で、

(32)車がなかったので自転車で出かけなければならなかった。しかし、そうするとかなり面倒なので、結局出かけるのはやめた。

と言うことはできることにも注意が必要である。中国語でも、

(33)因为没车,就必须骑自行车出去。

ということはできるという。ただし、「必▪」は過ぎたことについては一般的には使えず、

(34)∗因为没车,就必须骑自行车出门了。

は不自然だという。

拡張的用法についても触れておく。「なければならない」は選択される事態が唯一であるということから、判断の上での選択へと拡張した場合、

(35)その現場にいた以上、彼は犯人を見ていなければならない。

のような論理的必然性を表す用法になる。前述のごとく形態的にはテンスの対立はないが、すでに起こったこととしての扱いができるテイル形の場合には、未然の事態の選択という意味よりも、すでに成立した事態についての認定の必然性を表すものとして解釈されやすくなる。

3.4 「してはいけない」

「なければならない」という必要性を主張する表現の否定には、ふたつの論理があり得る。ひとつは、必要性があることを否定する「しなくてもよい」である。これは、自由度を付加するタイプの判断を表す(後述)。一方、一つの事態を禁止するのが「してはいけない」(「してはだめだ」などの形もある)である。「なければいけない」が、「事態の成立を否定すれば、だめだ」という方向で、結果的に肯定を必要とするという判断になるのに対して、「してはいけない」は、「事態の成立を仮定すれば、だめだ」という方向で、結果的に禁止ないし不許容(否定の必要)を表す。

必要性の否定として、「なければいけない」に対応する用法は、

(36)関係者以外は入ってはいけません。

のような形であるが、これには年少者に言うようなニュアンスがある。必要な措置として禁止を宣言する点で、

(37)関係者以外は入らないで下さい。

のような一般的な禁止表現と比べると、より権威的なニュアンスになる点で失礼になる[6]。中国語でも、目上に対して、

(38)不得入内。(闲杂人等不得入内。)

と言うと失礼になるのに対して、

(39)请不要入内。

であれば目上にも言えるという。基本的なメカニズムは同様と言えそうである。

なお、

(40)雨が降ってはいけない。シートをかぶせておこう。

のように、禁止ではなく「危惧」を表す場合があるが、この場合の「いけない」は評価的意味であり、

(41)雨が降っては大変だ。

に置き換えることができるので、意味的には区別が必要である。この意味を中国語に直そうとする場合、

(42)要是下雨的话就不好了。

のように違った表現が対応するという。

4.相対型事態選択形式

4.1 相対型事態選択形式の特性

ここで相対型事態選択形式とするのは、「べきだ、ほうがいい、といい」である。これらは、望ましい選択を相対的に示すが、ここに挙げた順に、その選択における自由度が増す。ただし、いずれも、「そうしなくてもいい」という否定の選択が可能であり、その事態選択は相対的である。例えば、

(43)君は帰るべきだ。しかし、事情が事情だけに、そうしなくてもいい。

のように言うことができる。中国語でも、

(44)你应该回家,可是情况特殊,不回去也行。

ということはでき否定の選択は可能である。

このことと関連して、一人称の人称制約現象があることも重要である。例えば、

(45)??私は行くほうがいい。

と言いにくいように、選択の価値付与が相対的な形式においては話し手が主語になれない。

相対的な価値判断を表す形式の場合、事態を価値観によって選択する当事者にとって、選択事態は「相対的」であり、ほかにも可能性が開かれている。つまり、事態選択は未決定状態である。しかし、一方で、選択に対するコメントとしては、話し手自身が一つの事態に価値をおくことになっている。こうしたところから、主語(特に主題として取り上げられる場合)が話し手になれば、不自然な文になる。例えば、

(46)∗私は明日早く起きる方がいい。

(47)∗私は明日早く起きるべきだ。

(48)私は明日早く起きるといい。

などとは通常言えない。中国語でも、

(49)∗我{应该·最好}早起。

とは言えないという(内省によっては「▪▪」は言えるという判断もあるようである)。

このように、話し手を主題兼務の主語にした場合、事態選択の可能性が開かれているという事態選択の当事者と、その選択に一つの事態だけを価値あるものとして提示するコメント付与者という、本来別物であるべき二役が、話し手一人によって兼ねられてしまい、不自然な表現になる。逆に、そうした条件を除いた場合、すなわち、

(50)込み入った話だ。その件については私が相談に行った方がいい。

(51)僕はそろそろ寝たほうがよさそうだ。

のように、話し手が主題となっていない場合や、価値付与の判断が話し手によって確定的なものとしてなされていない場合、矛盾は回避され、一人称でも不自然ではなくなる。

また、これらの相対型の形式は、過去形になった場合に、反事実的解釈がなされやすいという性質も共有している。「そうしないという選択もあり得る」中でそうする選択に価値を置くのがこれらの形式の意味であるが、それを過去形で示すことによって、現在時においてそれが成立していないという強い含意が生まれるのである。

(52)彼は行くべきだった。

(53)彼は行った方がよかった。

(54)彼は行くとよかった。

のように、それだけを言う場合には、事実はそうでないという強い含意を持つ。事実として実現したことを評価的に言う場合には、

(55)彼が行ってよかった。

のように、テ形を使って、後に「よかった」のような評価を表す部分を付加する表現がある。なお、中国語の場合も、

(56)×那时候他应该要去,所以他去了。

というのは不自然だという。

もう一つ、これらの形式は複数の選択が可能な中で一つの選択を表す点で、論理的必然性を表すこともない。「なければならない」「てもいい」などが推量的意味でも使われることとは性質を異にしている。ただし、この点、中国語の「▪▪」の場合推量用法として使うことができる点がことなっている。本来的には相対的な選択を表すと言える一方で、唯一的な選択に近い側面もあると考えた方がいいのかもしれない。以下、各論を見ていく。

4.2 「べきだ」

相対的価値を比較なしに必要性があるとして主張するのが「べきだ」である[7]。その点で唯一的な必要性を表す「なければならない」に近い側面もある。ただし、矛盾する選択をすることも可能だという評価である点が唯一的な必要性を表す形式とは違っている。

(57)~するべきではあった。が、しなくてもよかった。

のように言うことができる。相対的な価値を付与する点で、「なければならない」がもっていたような論理的な方向での唯一性を表すという用法はない。

主語(特に主題として取り上げられる場合)が話し手になれば、不自然な文になるということも前述の通りである。例えば、

(58)∗私は明日早く起きるべきだ。

などとは通常言えない。これも、

(59)私は明日早く起きなければならない。

と言えることと対照的である。中国語でも、

(60)×明天我应该早起。

は言いにくいという。

「べきだ」は、相対的な価値を表すが、その選択を選ぶことに一般化できるようなプラスの価値観があることを表す。そのために、内容にはプラスのことしか来ない。

(61)車がなかったので、自転車で出かけるべきだ。

などと言うことは不自然であるし、仮にそういう文脈として解釈し直すのであれば、それが必要とされるべきよいことという判断になる。

4.3 「ほうがいい」

相対的価値を必要性があるとして主張する形式として「ほうがいい」も位置づけられる。「べきだ」同様に、

(62)~するほうがよい。が、しなくてもいい。

のように言うことができる。また、選択事態がほかにも開かれていることを表す点で、選択の価値付けをする一人称の場合には矛盾が起こり、人称の制約ができる。

(63)∗私は明日早く起きるほうがよい。

などとは言えない。

ただし、比較形式をとる点で、「べきだ」よりもさらに相対的な価値判断を表す点は違っている。「ほうがいい」は「ほかのこと」と比較した事態の選択を表す。ただし、その選択は「べきだ」よりも弱い。

(64)きちんと仕事をする方がいい。

(65)きちんと仕事をするべきだ。

ただ、いずれも価値を限定する点で、聞き手に対して判断を押しつけることになる。その点で、相手の選択の幅が大きい場合には、押しつけがましいニュアンスができてしまうことがある。単に駅への行き方を尋ねられた場合の情報提供の場合であれば、

(66)駅へ行くならバスで行く{?べきです·?方がいいです·といいです}。

というように「といいです」が普通である。ただし、明らかに一方の事態がよいと判断する場合や相手が誤った判断をしている場合などは、

(67)地震で避難する場合にはエレベータは非常に危ないので、階段を使う{べきです·方がいいです·?といいです}

のように「べきだ」「ほうがいい」の方が適切である。

4.4 「といい」

「といい」は、文字通り、「いい」事態を条件文として述べるものであり、事態の選び方に関する形式と言える。

これも、相対的な価値を表し、

(68)するといいが、しなくてもいい。

のように「しなくてもいい」を後続させることができる。また、一人称を主語にして、

(69)私は明日早く出発するといい。

などと言うのは不自然である。

ただし、ほかの選択候補が明示されていない点において違いがあり、「行く方がいい」「行くといい」では、どのような違いがあるのだろうか。前者は最初から価値選択上の比較をしている点でその事態を選ぶ必要性が強い。いわば強い推奨となっており、その選択に従わないことは可能ではあっても、「よくない」ということが含意される。例えば、

(70)京都に行ったら宇治に行く方がいいよ。

という場合、「宇治に行く」という選択は「行かない」という選択と明確に比較され、それなりに強い推薦をすることになっている。もちろん「しなくてもいい」は共起できるのだが、

(71)京都に行ったら宇治に{??行く方がいい/行くといい}。もちろん行かないのも十分にいい。

というように「そうしないのも十分にいい」という、否定もそれなりに評価する表現を共起させると、「ほうがいい」では少し不自然さがあるように思われる。一方、

(72)京都に行ったら宇治に行くといいよ。

と言う場合、それほど強い推薦ではなく、その選択を選ばなくても評価できるという意味は成立する。

(73)京都に行ったら宇治に行くといい。もちろん行かないことも十分にいい。

という表現は自然である。「といい」は、提案的アドバイスであり、一つの事態を価値があることとして提示するものの、それ以外の選択もまったくかまわない。

この点に関連して二つの特性が指摘できる。1つは、アイロニカルな用法の余地もできているという点である。例えば、

(74)(いつまでも駄々をこねて食事をしない幼児に)勝手にするといい。のように言えるが、

(75)∗(同)勝手にした方がよい。

(76)∗(同)勝手にするべきだ。

ということはできない。これはアイロニカルではあっても、その選択が積極的にプラスのこととされているわけではないからである。いわばしかたなく現状を許容するに過ぎないのであって、この状況では、それ以外の選択、すなわち、むしろあるべき選択である、「勝手にしないでしっかりと行動する」という選択も積極的に保存しなければならない。その点、「するといい」はアイロニカルに現状を許容するという意味にもなれる。

もう一つ、否定が言いにくいという特性もある。「ほうがいい」の場合、

(77)手伝うほうがいい。

(78)手伝わないほうがいい。

のように、否定の事態を選択についても価値づけをすることができる。しかし、

(79)∗手伝わないといい。

のように否定的な事態を取り上げることはできない。これは、1つの事態を排他的でなく提案するという意味から説明できる。「するといい」とは、「すると」(「すれば」「したら」などでも同様)というように選択可能な事態を仮定条件的に示し、それについてプラスの価値を与えるという形式である。一つの事態を提案するという形式において、その提案内容が否定であるとすれば、具体的にどうすればいいかがわからないことになる。「~するといけない」というように危惧する場合はあり得るが、「しないといい」といった形式は事態の選択の仕方に関するコメントとしては一般的な形ではない。単に否定を言う場合は、

(80)たばこを吸うのはよくない。

のように適さないことを述語形式で言い直すような、文法化していない表現が対応する。

5.容認型(自由付加型)

5.1 容認型の事態選択形式の特性と可能表現

事態選択形式の中でも、「てもいい」は、

(81)~してもいいし、~しなくてもいい。

のように自由度を付加する。同形式での否定の並立が可能である。これは、事態を選択するにあたって、ある事態が選択の中に入ることを表し、選択の自由度を増やす。

(82)ここならたばこを吸ってもいいです。(外来者を案内する場合)

のように容認されるという状況を知らせる用法も可能であるが、単に、

(83)ここならたばこを吸ってもいいです。(話し手の権限として許可する場合)

のように、個人的意見として発話者が許可する用法もある。前者の場合、事態が可能であることを述べる点で、

(84)ここならたばこを吸えます。のように言うこともできる。可能表現を使うと許可を与えるという関係ではなくなる点で、支配と被支配というなニュアンスを消すという点で配慮のある表現となることも確認しておきたい。この点で、許可形式は可能表現と交渉を持つのであるが、中国語の場合、この意味は非常に明確に出る。

(85)你可以吸烟。

のように言うことは普通である(ただし、後述するように日本語とでは違いもある)。

5.2 「てもいい」

「てもいい」は、

(86)このコップは君が自由に使っても{いい·かまわない}。

のように、事態選択が許容されることを述べる形式である。許容を表す「いい」は「かまわない」(若い世代では「大丈夫」)などと置き換えることができる。

許容表現と可能表現との間には、その主体において可能な事態が増えるという点では近い側面もある。しかし、例えば、話し手が自分の家で、来客に対して許可を与える場合、

(87)∗このコップは君が自由に使えるよ。

のようには言いにくい。自分の領域であれば、自分の権限が読み込まれるからである。この点は、中国語で、

(88)这个杯子你可以自由使用。

と言えるのと少し違っており、注意が必要だと思われる。日本語の可能表現の場合、いわば客観的であり、そこに話し手の選択が関わる場合にはむしろ許容としての「てもいい」の方が選ばれるのである。

また、許容するということは、容認される方にとって一種の利益の関係を想定することにもつながる。その点で、話し手以外が主体になる場合には、話し手が恩恵を与える立場となって、受益性を付加して、

(89)このコップは自由に使ってもらっても{いい·かまわない}。

のように、「てもらう」を共起させることも可能である。これも許容においては話し手の選択ということが強く関わるという観点から位置づけられるであろう。

一方、同じ形の表現が、事態を選択するというよりも、発生を容認する場合もある。この場合には、

(90)十分な準備ができている。地震なんかいつおこっても{いい·大丈夫だ}。のように「いい」は、伝統的な用法でも「大丈夫だ」「問題ない」などで置き換えることができる。この場合は事態の選択としての許容の形式とは考えない方がよいと思われる。

なお、許容という意味が、判断の適切性として拡張すれば論理的可能性(論理的に可能な事態の付加)を表す。論理的方向への拡張は「なければならない」の場合とほぼ同様で、可能性の有無を問題とするようなレベルで使うことができる。例えば、

(91)3時に出たのだから、もう着いていてもいいね。

と言えば、許可というより、論理的判断の容認を表す。自分の知識をもとにした論理的な判断を表す点で、確信の度合いは弱いものの、「はずだ」に近い意味になる。

(92)3時に出たのだから、もう着いているはずだ。

のように言うのに近い意味と言える。

6.おわりに

以上、ここでは、「ざるをえない」「なければならない」「してはいけない」「するべきだ」「したほうがいい」「するといい」「してもいい」「しなくてもいい」などの形式をめぐって、森山(1997、2000)の議論をもとに、「事態選択的な判断」を表す形式として整理しなおした。これらの形式は、文として述べる場合に必ず必要となる述べ方ではない。事態のとらえ方の中でも副次的な様相を表すものである。また、文法的形式として完全に固定しているわけではなく、さらに言い換え関係を考えた場合に多義的でもある。

しかし、事態をいかに選択するのかというとらえ方は、「事態に対する態度」として重要な表現上のカテゴリーとなっている。その関連形式について考える場合、一定のモデルに立脚しつつ、関連する形式を、いわば日本語教育でいう、ゆるやかな「文型」相当のものとして整理しておくことは必要であろう。

ここでは大きく三つの類型に整理しつつ、いずれも事態の選択という観点からそのそれぞれの形式の意味と用法が整理できることを見た。すなわち、唯一的な選択、相対的な選択、許容的な選択という大別して三つの意味類型とそこでの各形式の位置づけである。不十分ではあるが、中国語でもおおまかなレベルで同じような現象が見られることも触れた。可能表現との関連については違いはあるものの、事態の選択という観点においては、ほぼ同様の整理ができそうにも思われる。今後、それぞれの言語において、個々の形式の記述を進めていく必要がある。さらに詳細な記述については今後の課題としたい。

参考文献

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[15]森山卓郎.日本語における事態選択の形式について-義務、必要、許可などのムード形式をめぐって—[J].国語学,1997(188).

[16]森山卓郎.例示の副助詞「でも」と文末制約[J].日本語科学,1998(3).

[17]森山卓郎.とりたて助詞の文末用法をめぐって[G]//佐藤喜代治.国語論究 第10集 現代日本語の文法研究.東京:明治書院,2002.

[18]山岡政紀,牧原功,小野正樹.コミュニケーションと配慮表現―日本語語用論入門[M].東京:明治書院,2010.

[19]渡辺実.「わがごと·ひとごと」の観点と文法論[J].国語学,1991(165).

[20]JOAN B,SUZANNE F.Modality in grammar and discourse[M].Amsterdam:John Benjamins Publishing Company,1995.

[21]ANN B.Where epistemology style and grammar meet:a case study from Japanese[J]. New literary history,1978,9(3):415-454.

【注释】

[1]澤田(2006)ではdeontic modalityを束縛的モダリティと訳す。益岡(1991)では価値判断のモダリティと呼ばれる。位置づけは森山(2000)を参照する。

[2]ここには、益岡2007の現実像と理想像の弱い対立という考え方の影響がある。

[3]中国語に訳した場合、この表現の場合「最好」に訳するよりも、「要是下雨的▪就好了」のように、別の文型を使って言うのではないだろうか。

[4]「(する)のが一番だ」なども、「一番」という語彙的な意味に依存しているが、この類として考えることができる。詳しくは別稿に譲りたい。

[5]森山(1997)、同(2002)などを参照。

[6]森山(1998)でも指摘したように、「私を捨てないでくれ」と言えても、「私を捨ててはいけない」とは言えない。個人的願望による禁止は「してはいけない」では表せない。状況における事態の必要性というとらえ方をするからである。

[7]ただし、連体修飾内部など、非終止的環境での用法では、「私が読むべき本」と言えるなど例えば人称制約も違ってくる。こうした点については別途検討が必要である。

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