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欧米世界の再編成と植民地時代

时间:2022-04-13 理论教育 版权反馈
【摘要】:欧米世界の再編成と植民地時代_中日双语辅导教程 基础篇 文科综合科目 この部分では、19世紀近代工業への移行が開始されたヨーロッパと南北アメリカの諸地域の動向を扱う。フランクフルト国民議会では小ドイツ主義との間で対立があった。1848年フランクフルト国民議会以来有力となり、北ドイツ連邦を経てドイツ帝国の成立が実現した。そして、西部の開拓は南部と北部の対立を激化させた。

この部分では、19世紀近代工業への移行が開始されたヨーロッパと南北アメリカの諸地域の動向を扱う。

1. イギリス

2. ドイツ

★ビスマルクの「アメとムチの政策」:社会主義者鎮圧法を公布する一方で、疾病保険·災害保険など労働者への福祉や社会政策も掲げた。

大ドイツ主義:オーストリアとドイツを統合し,すべてのドイツ人を含む統一を達成しようという主張。フランクフルト国民議会では小ドイツ主義との間で対立があった。

小ドイツ主義:マジャール人など他民族も多いオーストリアを排除し、プロイセンを中心にドイツを統一しようという主張。1848年フランクフルト国民議会以来有力となり、北ドイツ連邦を経てドイツ帝国の成立が実現した。

▲ビスマルク

3. イタリア

★カルボナリ:イタリア南部で結成された秘密結社。ウィーン体制に反対して自由主義運動を展開。

青年イタリア:1831年マッツィーニが結成した政治結社である。カルボナリ衰退後のイタリア統一運動の中心を担っていたが、弾圧を受けて凋落した。

4. ロシア:クリミア戦争とロシアの改革

ロシアでは、19世紀に入っても皇帝の専制政治が続き、強固な農奴制が残って産業の開発を妨げていた。1825年、ニコライ1世の即位に反対し、農奴制の廃止を求めて青年将校がデカブリストの乱を起こしたが鎮圧された。

▲クリミア戦争

ニコライ1世は1853年、ギリシア正教徒保護の名目でオスマン帝国領内に侵入し、クリミア戦争(1853~1856)をおこした。しかしイギリス·フランスがオスマン帝国側で参戦、ロシアは敗れた。クリミア戦争の敗北でロシアも近代化を迫られ、皇帝アレクサンドル2世は1861年、農奴解放を発布し、農奴の人格的自由を認めた。しかし、1863年のポーランド反乱を機に反動化。スラヴ民族の統一を目指すパン=スラブ主義を利用してバルカンへの南下政策を進めようとした。

★クリミア戦争:1853~1856年、ロシアと、オスマン·イギリス·フランスの間で起きた戦争。バルカン半島や中央アジアへの南下を図ったロシアに対し、阻止しようとするイギリスなどがクリミア半島に出兵して参戦。ロシアが敗北し、アフガニスタン等、イギリスの中央アジアでの権益が保障された。

5. アメリカ――南北戦争

建国当初より南北対立は存在していた。

北部では自営農民や自営の商工業者が多く、とくに信仰の自由を求めて移住したピューリタンが多かったニューイングランドでは、本国に対する批判意識が強かった。一方、南部では黒人奴隷を使用して、タバコや米を栽培する大農園(プレンテーション)が拡大した結果、北部と南部のあいだには生産や労働の形態に地域差もみられた。

また、土地をめぐる先住民との戦闘も続いていたため、イギリス国王は、七年戦争(北アメリカではフレンチ=インディアン戦争)後には植民地人の居住地域をアパラチア山脈以東の地域に限定する命令を出した。

そして、西部の開拓は南部と北部の対立を激化させた。南部諸州が、連邦議会における優位を維持するため、西部に奴隷制を拡大しようとしたのに対して、北部諸州は対抗して、自由州を拡大しようとしたためであった。

POINT アメリカの南北問題

アメリカ北:日用品などの工業生産、中央集権支持(共和党)、保護貿易

アメリカ南:綿プランテーション(農業)、州権主義(民主党)、自由貿易

6. 北ヨーロッパ諸国

①スウェーデン:1809年にフィンランドをロシアに割譲したが、1815年ウィーン会議でノルウェーを獲得。その後安定した立憲君主制の国として順調に発展。

②ノルウェー:ウィーン会議の結果、デンマーク領から同君連合のスウェーデン領となった。1905年平和的に独立した。

③デンマーク:1864年プロイセン·オーストリアと戦い、シュレスヴィヒ·ホルシュタイン両州を失ったが、農業·牧畜を中心に産業を発展させた。

17世紀のスペインとポルトガルは香辛料、黄金、労働力を求めて、対外侵略をしたが、19世紀の英仏は市場と資源を求めて海外侵略をした。

1. オスマン帝国の衰退

オスマン帝国は最盛期ではヨーロッパ、アジア、アフリカに跨る巨大帝国だったが、1683年に第2次ウィーン包囲に失敗、18世紀から衰退し始め、支配体制も揺らぎ始めた。オスマン帝国支配下の諸民族は、19世紀前半以来独立運動を展開し、利害関係をもつ列強がこれに干渉した。この国際問題を西欧列強の側から「東方問題」と呼ぶ。

(1)オスマンとロシア

ロシアは南下政策推進のため、しきりにこの問題にかかわった。ギリシア独立戦争後のアドリアノープル条約(1829)で、ロシアは黒海北岸の地を獲得し、ダーダネルス·ボスフォラス両海峡の自由航行権を得た。そして1831年エジプト=トルコ戦争が始まると、ロシアはオスマン帝国を支援して地中海進出をめざしたが、イギリスなどの干渉で阻止された。1853年に始まったクリミア戦争でも敗北し、1856年のパリ条約で黒海の中立化が約束され、南下政策はまたも挫折した。しかし、1877年~1878年、ロシア=トルコ(露土)戦争に勝利した。

戦後結ばれたサン=ステファノ条約で、ルーマニア·セルビア·モンテネグロのオスマン帝国からの独立、ブルガリアの自治が承認され、ロシアはブルガリアを通じてバルカン半島での勢力拡大に成功したように見えた。しかし、これにイギリス·オーストリアが反対したため、ドイツのビスマルクが調停にたって、ベルリン会議を開き、3度南下政策は阻止された。

(2)各地域の動向

▲ムハンマド=アリ―

ナポレオンの遠征によってエジプトが混乱するなか、軍人のムハンマド=アリ―はエジプト総督の地位につき、東スーダンの征服、オスマン帝国との戦争への参戦、同時にエジプトの近代化を進めた。しかし、イギリスの侵略に対し、抵抗をしたものの、鎮圧され、エジプトは保護国となった。また、1875年財政破綻のためスエズ運河[1]会社の株をイギリスに売却した。中央アジアのイランやアフガニスタンもしだいにイギリスに支配されるようになった。

オスマン帝国の属州だったアルジェリアも1830年、シャルル10世の治世下のフランスが出兵して、占領した。

オスマン帝国の領地であったトルコは、オスマン帝国が衰退後、近代化を進めた。クリミア戦争に勝利後、オスマン帝国がミドハト憲法を制定した。クリミア戦争では、ロシアの南下を防いだが、露土戦争に敗れ、サン=ステファノ条約でバルカン半島の領土の大半を失うことになった。

ミドハト憲法

宰相ミドハト=パシャにより制定された。アジア初の憲法であったが、露土戦争を口実に停止された。

2. ラテンアメリカ諸国の独立

ラテンアメリカの植民地は、まず1804年にフランス領のハイチが独立し、さらに1810年代から20年代にかけて多くの国が独立を達成した(アルゼンチン、チリ、ペルー、ブラジルなど)。オーストリアのメッテルニヒはこれに干渉しようとしたが、ラテンアメリカを市場とする狙いからイギリスが反対し、アメリカ合衆国大統領モンローがヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉(モンロー主義)を唱えた。

3. イギリスのインド支配

4. 東南アジアの植民地化

(1)オランダ領インドネシア、ジャワ島

17世紀からオランダは東インド会社を経営し、18世紀にはジャワ全域を支配。その後、コーヒー、サトウキビなどの商品作物を強制栽培させ、プランテーション制度を採用した。その結果、オランダ商品作物を安く買い上げて、輸出により利益を得たが、幾度もの飢饉を引き起こした。1904年アチェー王国を滅ぼし、インドネシア全土を支配。ジャワ島のバダヴィアとスマトラ島を活動拠点とした。

(2)スペイン(後にアメリカ)領フィリピン

16世紀以来スペインはフィリピンを植民地化し、プランテーションを始めた。19世紀末には、フィリピンはスペインからの独立戦争を起こし、アメリカがこれを支援した。フィリピン独立後アギナルドが大統領に選出されたが、アメリカは米西戦争でフィリピン領有権を得ると、フィリピンを植民地化した。

(3)イギリス領ビルマ、マレー半島

イギリスはビルマ戦争でコンバウン朝ビルマをインド帝国に編入し、植民地化した(1896年)。またマレーシアもイギリスの植民地となった。この時期にアフガニスタンもイギリスの保護国となった(1880年)。

(4)フランス領:インドシナ

仏越戦争後のサイゴン条約でコーチシナ東部を手に入れ、ユエ条約でベトナムを保護国化した。またラオスやカンボジアもフランスの保護国となった。

(5)アメリカの進出

キューバの対スペイン反乱を助け、1898年に米西戦争を起こした。スペインからグアム、フィリピンを奪い、キューバを保護国化した。

(6)タイの独立

イギリスとフランスの植民地の間の緩衝地帯として、独立を保った。

5. 中国の半植民地化

★中国の分割

中国同盟会:満州王朝の打倒、共和国の建設、貧富の差の抑制を内容とする「民族、民権、民生」の三民主義を掲げた。

[链接答案]

19世紀後半から20世紀初めにかけて、列強は輸出市場、A、植民地を求めてアジア(Asia)·アフリカ(Africa)に勢力を拡大した。Bは中東(Middle East)に進出を図ると同時に、鉄道を建設して東アジアに進出しようとした。そこで日本はBの動きに警戒したイギリスに近づき、1902年、日英同盟(Anglo-Japanese Aliance)を結んだ。

(1)上の文章のAに当てはまる語として最も適当なものを、次の①~④の中から一つ選びなさい。

①資源
②工業製品
③労働力
④移住地

(2)上の文章のBに当てはまる国名として最も適当なものを、次の①~④の中から一つ選びなさい。

①アメリカ
②ドイツ
③フランス
④ロシア

(「2005年度日本留学試験(第2回)試験問題[EJU]」)

[1]フランス人外交官レセップスの提案でフランスとエジプトの出資により建設。1869年完成。

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