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“实用文”和“美文”

时间:2022-04-06 理论教育 版权反馈
【摘要】:毋庸置疑,汉文调与和文调这一对概念对于日语文体的分量很重,然而仅仅凭此并不足以代替文体分类的全部。他提出实用文和美文的对立,并认为处于中间的还有实用性美文这个范畴,为文体的分类提供了一个极佳的参考。从以上的论文我们可以看到,无论是汉文调还是和文调,都能够在抒情达意的文章上得到发挥,并不受语体的局限。

毋庸置疑,汉文调与和文调这一对概念对于日语文体的分量很重,然而仅仅凭此并不足以代替文体分类的全部。

虽然明治20年二叶亭四迷和山田美妙用言文一致体发表了《浮云》和《武藏野》,但事实上,当时的小说和一般文章并没有在其影响下就立刻朝言文一致的方向转换。仅就小说来看,雅文体、雅俗折中文体、欧文直译体、汉文训读体、和汉洋混合文体等多种文体百花齐放,仍处于一种在文言体上改造和摸索新文体的阶段。与言文一致相同,都是为追求基于新的文学概念下的创作和翻译的表现形式而作出的实践与艰苦的探索,这是当时的主流现象。

与此同时,也出现了对文章修辞及分类的积极探讨和摸索,受西方修辞学的影响,继坪内逍遥的《小说神髓》之后,高田早苗出版了日本第一部修辞学著作《美辞学》(明治22年),其后又陆续有大和田建树的《修辞学》(明治26年)、武岛又次郎的《修辞学》(明治31年)、岛村滝太郎的《新美辞学》(抱月。明治35年)问世,从而在文体的探索中从语体和文章功能的角度对文体有了比较系统的分类。尤其是岛村提出了美文这一概念,并在《新美辞学》中作了通俗易懂的论述:

思想の性質を知的と情的との二大別とするときは、知を主とするものはおのずから実用的に近づき、情を主とするものは娯楽的に傾くを常とす。即ち目的よりいふときは、知の文は実用文にして情の文は美文なり。されど美文にして直接に知を主とすることは無きと共に実用文は往々にして情をも目的とすることあり。此に於いてか中間さらに実用的美文といふが如きものを生ず。(中略)美文体にありては、常に詞藻あり修飾なることが価値なれども、実用文体に取りては、却りて修飾を消したる平叙文が価値となることあり。(中略)記録文、説明文等は専ら実用文体に属するものなり。詩歌、小説、戯文のたぐひは言ふまでもなく美文たり。議論文、勧誡文、慶弔文等は概して実用的美文と見るべし。(《新美辞学》464-465)

他提出实用文和美文的对立,并认为处于中间的还有实用性美文这个范畴,为文体的分类提供了一个极佳的参考。芳贺矢一、杉谷代水在《作文讲话及文范》里从文章功能目的的角度对实用文和美文作了细分,现归纳如下:

下面我们来看一段明治的美文:[4]

ふる里の忍ぶの乱れ、いかならむ。昨日今日、都も秋の色ふけて、はらはぬにこぼるゝ萩の上葉の露もろく、風なきにしをるゝ尾花の袖の影やせて、もの思ふとには、あらねども、何となくながめらるゝ夕暮の宿、何処もおなじとはきけど、野辺はされどもまたそゞろに心ゆく方もやと思ひて、をりふし月かげのあかきに任せて其処ともなく迷ひ出づれば、野くれ山くれ限りなく、清風白露吹きみちて、唯一面にすみわたりたる大空に、雁がねの三ツ四ツ二ツ、何にむせぶか、声たえだえに鳴きつらねたる、誰が為めに誰が玉章をかけてかとうち見れば、こし方ゆくへ、いよいよ忍のばるゝ空のはてもなく、つくづくと打ちながむれば、風声夜色ますますさえさえて、吹きすさむ松の嵐の撓む折節、月の桂の散りかゝると覚えて、はらはらと木梢にひゞく笛竹の音、いかなる人か、此処もまた仮りねの秋の床さむみ、ねられぬまゝのすさびなるらむ。きけばあはれに忍ぶ故園のね。あな笛や、故園のねや、なつかしき故郷人は、いかにしつらむ。

なつかしき故郷人は、いかにしつらむ。なつかしき故郷人は、いかにしつらむ。

以上例文引自盐井雨江《笛声》中开头的一段,是追忆少年时代友情的小品文。文章开始即颇具匠心地将古诗歌古文的词句穿插其中,整体上散发着古诗歌韵味,属一篇和文体的美文。其中,使用重复“なつかしき故郷人は、いかにしつらむ”的叠句手法,充满着欧文调的那种伤感的气氛。

ひと日、父の御墓に詣でんとて、我家を立いでしは、昼やゝすぐる頃なりき。菩提院に=おもむき、水そゝぎ、香たき、花など供へつゝ、唱名念仏ねんごろに終へて、寺の門を立出でけるに、折柄、弥生の初めつかたとて、うらうらと霞める空名残なく晴れて、高く囀づる鳥の声々、いと匂ひやかに、萌出る草々の芽もはるめきて、四方に立つ白雲のおもしろかりければ、そゞろに足のすゝむを覚えず、夢こまやかなる蝶を驚かし、色なつかしき春草ふみしだきて、ゆくりなくも、匂ひこむる一の花林にいでぬ。

ここにはもゝ木の桜、所せきまで咲きみだれて、空にしられぬ、白雲、道ゆく人の歩みを止め、えならぬかをり、こまやかに通ひやかに、そよふく風に打ねむるおもてにはちりうかびたる桜花一ひら二ひら、むすべる夢の行方をやおふらん。(下略)

をりしも、夕日西の山の端にかゝりて、雲の夕ばえ、いと花やかに、やうやうかなたより蔽ひくる夕ぐれの袖は、なべてをちかたの野山をつゝめば、今はかぎりと、二ひらみひらちりゆける花を恋ふとや、遠山寺の鐘の音、ものすごく又あはれなり。

这一篇取自武岛羽衣的小品文《春の夢》的开头和结尾的部分。文章也是以和文为基调的美文体,结尾的一段将夕阳映照野山的景色描写得如梦如幻。但与前一篇相比,虽然都是和文调的文章,但后者几乎未见有过多的修饰词句,更接近于近代的文章。

結構をつくせりといふ東照宮も、さすがに、日に慣れてはまた珍しからず、二十三字の殿堂、縹緲として画けるがごとく、丹青の美、彫刻の妙、また世に類なきものから、規模小にして徒に繊巧綺縟に陥り、またく雄大荘厳の風韻を見ず、島国の美術はかゝるものにや。憾鋡の淵、大日堂、日本公園、清滝、白糸滝、素麺滝の如きも、盆池の小景に過ぎず。中禅寺湖上の月に扁舟を浮べ、去て湯湖の畔の霊泉に俗腸を洗ふも、また尋常の遊縦なるべし。日光の勝、もと区々たる人工の祠廟にあらずして、自然の大観なる山と見ずとに在り。

以上为大町桂月的纪行文《日光山の奥》中的一节。将日光雄浑的景观用汉语和汉文调表现表现得淋漓尽致,构成不同于前两篇的别具一格的美文。

从以上的论文我们可以看到,无论是汉文调还是和文调,都能够在抒情达意的文章上得到发挥,并不受语体的局限。所以,汉文调、和文调是一个极其宽泛的划分标准。

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